klaxon
※オールフィクションです。実在の人物などとは一切(とは言い難いものの基本的には)関係がありません。
夏の夜中というものは総じて寝苦しいものであるが、特に今日は郡を抜いている。お盆休みに浮かれて生活リズムが狂っているのもその原因の一端を担っているのだろうか。して、真夏の夜という言葉は何処か甘美な響きを含んでいることもまた事実。例えばそう、寝付けないからと言い訳しつつ部屋着の上に薄手のパーカーを羽織っただけの簡単な服装で街を歩き回ってみたくなるような。そこまで思考した私のすぐ側を自転車が通りがかり、生温い風が頬を撫でていく。昼間の刺すような陽射しは跡形もなく消え去ったものの夏特有の熱気と湿気を帯びた空気は健在だ。いくつかの路地を出鱈目に抜けた先、ふとひとつの看板が目に留まる。どうやらショットバーのようだ。近くの雑居ビルの中に入っているらしい。こんなところに店なんてあったかしら?
バーで1人酒を嗜むなんて洒落た趣味は生憎持ち合わせていない。けれど、どうせ明日も休みだし。またしても言い訳がましく呟いたわたしの足を看板の指す方に向かわせたのは、きっと夏の魔法ってやつだと思う。
こじんまりとした店内は静かで薄暗かった。ライトアップされた水槽の中で金魚が泳いでいるのは店主の趣味だろうか。ざっと見渡した限り、先客は恐らくひとりだけ。カウンターの一番窓際に座っている。わたしはそこから少し距離を開けた、寡黙そうなマスターが手で指し示すカウンターの真ん中辺りに腰掛けた。お酒の知識は皆無に等しいので、とりあえずおすすめで飲みやすいものを注文する。ほどなく目の前に置かれたグラスの中身は黄みがかった白色の液体で上に缶詰のチェリーが添えられ、可愛らしい見た目をしていた。一口含むと南国らしいフルーツの甘みが口に広がって、なるほど、確かにとても飲みやすい。
ふと、視界の端にもう一人の客の姿が映った。緩めのシルエットのパーカーをラフに纏った青年と呼べるほどの若い男性。薄暗い店内で顔ははっきりと見えないが、手元のスマートフォンから発される光が形のいい輪郭をぼんやりと映し出している。なぜか彼の前にはグラスは置かれていなかったが、気だるげな様子でカウンターに腰掛けスマートフォンの画面を見つめるその姿はこの静かな店内に妙にマッチしていて、まるで映画のワンシーンのよう。
カタン、と硬い音がしてわたしの意識は現実へと引き戻された。青年が訝しげにこちらへ顔を向けている。先程の音は彼がスマートフォンをカウンターに置いた音だったらしい。知らない人の姿をまじまじと見つめるなんて、随分と失礼なことをしてしまった。
「この店ははじめてですか?」
唐突に青年が口を開く。思いの外はっきりとした、よく通る声だ。
「はい、あなたは……?」
「たまに来るんです。眠れそうにない日とか、道に迷った日とか」
「へぇ、」
彼が手元の方に落とした目線、その先から微かに物音が聞こえる。目を凝らして見るとどうやらその手はトランプを弄んでいるようだ。
「例えば、明日自分に羽がはえたとしたらどうしますか?」
「え?」
突然の問いかけに思わず頓狂な声が漏れる。
「欲しいと望みつつ手に入るはずがないと諦めていたものが手に入ってしまった時、人はどうするんでしょうね。」
「えーと、嬉しいし、喜ぶ……?」
「手に入れてしまったあとに訪れるのは、失うことへの恐怖。失うことを恐れる気持ちは時に別の大切なものを奪い去ってしまうかもしれない。」
「それは……。」
「手に入ったものを必死に守り、代償として元から持っていたものを失った時、そこには望んでいた世界はあるんでしょうか。」
「……。」
「天の気まぐれで羽を手に入れた人間の行く末は天(そら)に昇るのか天(そら)に堕ちるのか、どっちなんでしょうね。」
パタパタと軽い音を立てて彼の手から床へとトランプが滑り落ちていった。
翌日、夜が更けても目が冴えたままのわたしはふたたび、半ば衝動的にあのショットバーの前に来ていた。眠れない日にはここに来ると言った彼のことを思い出しながら。
扉を開けると聞き覚えのある話し声が耳に入ってきた。ワンテンポ遅れてわたしの目は彼の姿を捉える。さり気ない様子で昨日と同じ席に座りそっと横目で盗み見ると、どうやら彼は電話をしている様子だった。会話の内容はよくわからない、いや、何となく聞こうとしてはいけない気がした。居心地悪く身じろぎするわたしにマスターがグラスを差し出す。暗いブラウンと白のクリームのコントラストに口を付けるとカカオの香りが広がった。電話を続ける彼の前には相変わらずグラスはない。
ブラインドの隙間から人工灯の光が覗く。都会は真夜中でも明るい。そこから取り残されたような、まるで小さな水槽の中のような店内で、揺れるわたしの意識は昨日の彼を思い返していた。あの時の彼はわたしを見ているようで、多分わたしに向かって語りかけてはいなかった。彼の声の向く先は恐らく彼自身だったのだ。今の彼は、どうなのだろう。電話越しの誰かに何かを語りかけているのだろうか、それとも、電話越しの誰かは昨日のわたしと同じように彼が彼に語りかける為の装置に過ぎないのか。
なんつーデタラメ。
解像度の低い彼の言葉の中、何故かその言葉だけが妙にはっきりと耳に届いた。
その次の日、外は雨だったにも関わらず、わたしはまた同じバーに来ていた。扉を開けるとカウンターの中には誰も居らず、窓際にあるテーブル席にあの青年が座っている。椅子の背もたれを前にして腰掛けトランプの札を弄ぶ彼の姿はどこか、昨日までよりもずっと幼い少年のように見えて、思わず声をかけてしまった。
「あなたはいつもここにいるね」
「そういう貴方こそ、もう3日も連続でここに来ている。」
「なんだか、眠れなくて」
「奇遇だね、俺も。でもここにいると何だか少し眠くなってくるような気がしませんか?」
「そうなの。何だかモヤモヤして眠れなくて気づいたら足が動いてて、でもここにくると何故か眠れるようになる。」
「世の中はさ、出鱈目ばっかりで嫌になりますよね。その癖正直に言った言葉は時に歪められたり」
「まただ。君はいつもこうやって突然難しい話を始めるの?」
「難しいことは言ってないですよ。ただ俺は考えているだけで。眠れないと、どうしても考えてしまわない?」
「何かが怖いの?」
「どうしてそう思ったんです?」
「一昨日の羽の話もさっきの話も、君はずっと何かを恐れているような気がする。」
「恐れているといえばそうなのかもしれない。けれども恐れがない人生なんてあるのでしょうか?」
彼の問いかけを遮るように窓の外からクラクションの音が聞こえ、規則的に窓を叩いていた雨音が乱れる。青年は椅子から立ち上がると今度は丸テーブルの上に腰掛けてブラインドの隙間から窓の外のビル群を見やった。
「そりゃあ恐れはあります。俺だって失敗は怖いし、それでも失敗してしまう時はある。でも、その失敗自体は消せなくとも、失敗したあとにどうなるかは自分次第、だと思いませんか?」
彼の言葉は心做しか先程までよりも感情が滲んでいるようで。
「そうなの……かな」
「俺はそう思います。たとえそれが上っ面だけの理想でも、その先にあるのが逆境でも……」
「……」
「勿論、俺がそう信じたからといって貴方が信じる必要もない。俺は俺、貴方は貴方なので。」
「わたしはわたし、あなたはあなた……?」
気付けば雨音は止み、ブラインドの隙間からは朝日が漏れ出していた。
「朝だね。」
青年に向かって声をかけるも返事はない。その横顔はただ静かに都会の朝を見つめている。
バーの外に一歩踏み出すと、変わらない筈の東京の街は夜中のそれと随分違って見えた。何となく、もう彼と会うことはないような気がする。わたしがこの場所を訪れることもきっともうないだろう。さっき彼が言ったように彼は彼だしわたしはわたしだ。だが、それと同時にきっとあの空間において彼はわたしでもありわたしは彼でもあった。多分わたしたちは互いに互いの姿を通して自身に問いかけていたんだ。
寝苦しかった真夏の夜はきっと終わった。