2月のフィルム

四季折々あなたと居たい

猪狩蒼弥『堕天』に対する雑感

0.はじめに

2020年6月14日にHiHi Jetsの猪狩蒼弥が突如ブログコンテンツたる「伝記」に投げた爆弾、それが『堕天』である。そこに記されていたのは今から五百年後の、あるかもしれない未来の話、「天」によって選ばれた人類の一部が背中に羽を受け、「天人」と呼ばれるようになった世界の話だ。主人公は愛する「彼女」と二人で暮らす、どこにでもいるような「平均的」な青年だった、ある日「天人」になるまでは。選ばれた彼は「声」に従い多くのものを得て、また、大切なものを失って、最後は月に見下されながら文字通り堕ちていく。そんなお話。

猪狩くんは何を思ってこれを書いたんだろう、これを公開したんだろう。深い意味なんてないのかもしれないし、何らかの意図があるのかもしれないし。なんて、考えたところで私は猪狩蒼弥ではないのだからわかるわけがない。けれど、彼が書いたこの文章を私の精一杯で考えてみたくなった。きっと絶対猪狩くんはこんなもの望んでないんだろうけど。もし万が一億が一、何かの間違いで猪狩くんがこのブログを見つけてしまったら。ここまで読んで(何ならここまですら読まずに)鼻で笑ってブラウザバックしてくれることを祈ります。

 

1.「僕」と「彼女」と救済について

羽を授かった「僕」には声が聞こえるようになった。それは「とても落ち着く声」「威厳さえある声」だという。声はいつだって「僕」を正解に導いてしまう、そんな代物だった。普通の人間がある日そんなものを手に入れてしまったらどうなるか?決まっている、思いあがって、それに溺れるだろう。それは作中の「僕」も例外ではなかった。主人公として描かれている「僕」の人間性は極めて普遍的なそれに感じた。良心も野心も劣等感も全て人並みに持ち合わせていて、きっとほとんどの人間がここで描かれる「僕」に近い部分を持ち合わせていることだろう。

非常に普遍的な人間である彼は、ある日突然「天」に救われた。と、思い込んだのだ。実際、羽を手に入れ力を手に入れた時の「僕」は文字通り"天にも登る心地"だったに違いない。しかし、やがて声の力に溺れいった彼は大きな過ちを犯す。それは、愛する彼女を捨てること。「僕」が失ったものは彼女だけではなかった。その時から彼は声に抗う力を、選択する自由を失った。彼女という足枷を捨てた「僕」が代わりに得たものとは「天」から垂れる透明な操り糸だったのではないかな、きっと。そして、糸に導かれるままに高く高く飛び立った彼に糸の存在を気付かせたのは他でもない彼女の死だった。彼女の死が、彼に「天人」の歪に気付くきっかけを与えたのだ。理を解した「僕」は天へ昇った。そこで目にしたものは無数の「羽人間」たち。彼らもまた、「僕」と同じような経緯を経てそこへたどり着いたのだろうか。おそらくこれを読んだ多くの人が感じていることであろうが、ここで今まで「天人」と称されてきたモノが「羽人間」と称されるところがおぞましくて美しい。今まで「天人」に対して抱いていた神聖で崇高なイメージが無数の羽虫のような、グロテスクさすら感じるイメージに一変した瞬間だった。

そして、そんな「羽人間」達と共に天に近づいていった彼は、理の外側にあるものを悟る。憐れな「僕」は近すぎる距離から彼女が大好きだった月を独りで眺め、月に見下ろされながら堕ちていく。墜ちる彼が最後に思ったのは、きっと彼女のこと。私は、そこにこの物語の救いを見出した。結局彼は最後まで彼女のことを完全に捨てられてはいなかったのである。愛する彼女の手を「声」の誘惑に魅せられて切り離した事実は覆らない。恐らくその時点で「声」は彼のことを完全に支配下に置いたと錯覚していた。しかし彼の中には彼女を切り捨てたことへの未練や後悔の残滓が確かに残っていたのだろう。それが前述したように彼女が「天人」によって命を弄ばれたという事実を知って呼び起された。そして最後には彼女が「連れてって」と強請った月に向かっていき、彼女を想いながら堕ちていく。結局のところ、徹頭徹尾彼の中には彼女への愛が存在していて、彼女への愛が彼にとっての最悪の事態―声の操り人形に終始して「人そのもの」を完全に捨てる結末―を回避した。だから、私は思うのだ。この物語の最後に希望は見えなかったかもしれないけれど、確かに救いはあったと信じたい、と。

 猪狩くんは愛情深い人だと思う。きっとそれは私なんかよりももっと長い間猪狩くんのことを応援してきたファンの人たちなら当然のように知っているだろうから具体的なエピソードは省くけれど。この物語を読んで、やはり猪狩くんは愛の人だと思った。人間の醜い部分も沢山見ていて知っているけれど、それでもなお、もしかしたらそれ以上に愛の美しさを信じることができる人なのだろうと。勿論、気付かずに栄光に溺れていた方が幸せだったのではないか?とか、そもそも羽なんて生えなければよかったんだ、とか色々思うところはある。そんなところも含めてこの物語は美しい。

それからもう1人、「僕」と共にこの運命に翻弄された存在である彼女。彼女に救いはあったのだろうか。この物語は「僕」を中心に書かれており、彼女の存在は上記の通り僕にとって非常に大きな存在であることは間違いないのだが、意外と彼女自身の人格や生い立ちなどについて触れられている部分はあまりない。読者が彼女についてわかることは「月が好きな女性である」ということ、「僕を愛し、僕に愛された女性であった」ということくらいである。そして、この少ない情報が逆に彼女を神格化しているように思える。声に溺れる前の「僕」にとって彼女は一番の存在であった。きっと、女神を信仰するように彼女のことを愛していた。そして最後に堕ちた「僕」にとっても、きっと彼女は神聖な存在であった。死んだ彼女は堕ちる先にいたのではなく、月と同じ場所にいたのではないだろうか。少なくとも、「僕」はそう考えていたのではないかと思う。美しいままで死んでいった彼女は、死んでも尚彼にとって美しいものであった彼女は、死ぬ時何を思ったのだろう。彼を憎んだか、天人を憎んだか、運命を憎んだか、それとも、聖女のように全てを受け入れたのか、はたまた……。

 

2.理の外側には何があったのか

文章の冒頭で「天」について述べられている。曰く、理の外側で起こるものは「天祐」「運命」であると。そして主人公はその考えを最後に覆している。理の外側には「天祐」よりも大きなものがあると。それに気付いた「僕」は飛ぶのを辞め、堕ちていくのだが。

正直、ここがまじでいくら考えてもわかんないんすよね……。

まず、この答えに辿り着く為に「声」とは一体何なのかを考える必要があると思う。「声」はいつだって「僕」を正しい方向に導く代物であり、「僕」が正しくないことをしようとすると止めるものだった。しかし、この作品において、正しいことは必ずしも「僕」にとって良いことだとは限らなかったのである。作品において、と言ったが「正しい≠良い」という考えは現実にも十分適応されるだろう。凡そ、「正しい」とは客観による判断であり、「良い」とは主観による判断だと考えられる。つまり、「声」とは客観的な判断であり、「声」に支配されることは客観に支配されることだ。それは主観の喪失であり、言い換えると「自我の消失」となる。羽の代償に失うものは「人そのもの」だという。確かに、自我のない個は人とは言えないのかもしれない。「俺は俺」を座右の銘に掲げている猪狩くんからしたら、特に。(ちょっと糸口が見えてきた気がするぞ……?)

では、「声」を絶対的な客観のメタファーであると考えると、対になるもの、絶対的な主観は一体何なのか。それこそが、理の外側にあるものだったのではないだろうか。それに気付いた「僕」は「天」に縋ることを辞めた、つまり、自らの意志で飛ぶことを辞めた。「天」に縋ることをやめ、絶対的な主観を発見した「僕」に絶対的な客観である「声」と共に与えられた羽はもう使えなくなってしまったのだろう。

さて、ここでふと疑問が生まれる。「羽人間」は本当に「天」によって無作為に選ばれたものだったのだろうか?もしかしたら、羽が与えられた人々というのは、自我を手放しかけていた人々だったのかもしれない。物語の冒頭で彼女の友達の友達である売れない漫画家の話が彼女の口から語られる。その漫画家は羽が生えた途端に先程まで描いていたネームを破り捨てたという。普通、漫画を描きたくて描いているのだとしたら羽が生えたからといってすぐさま漫画を描くことをやめたりはしないだろう。漫画家はその時既に、自分の意思で漫画を描いてはいなかったのではないか。生きるため、これ以外に出来ることもないからと、自分にはこれが「正しい」道なのだと言い聞かせながら漫画を描いていたのではないか。そして、羽が手に入り漫画を描かずとも生きていけることがわかった瞬間それを破り捨てた。

そのように考えると、彼女にいつまでも羽が生えなかった理由は、もしかしたら、彼女は強い自我を持った存在だったから、かもしれない。そうだとしたら、前の章で述べた彼女=聖女・女神説にも少し繋がるものがあるのではないだろうか。

 

3.終わりに

さて、気付いたらそこそこの文量を書き上げていた。今回は題材が題材だったので、わりとしっかりレポートを書くような気持ちで文章を練り上げてみた(時折文体が崩れるのはご愛嬌)。本当は月についてやTwitter上の考察で見かけたイカロスの神話との関連性などもう少し考えてみたいこともあったのだが、流石に纏まらなくなりそうなので一旦これくらいでまとめに入ろうかと思う。(気が向いたら追記するかもしれないし、恐らくしない)

私は『堕天』を自我の消失と奪還、また、愛による救済の物語であると解釈したが、きっとこの物語には読み手の数だけ解釈があると思う。当然私のブログを読んでこいつ何言ってんの?って感じる人もたくさんいるだろう。そして、それこそが文学の醍醐味だと思う。

んで、だ。そんな「文学」を何の予兆もなくブログにポイッと放り投げてしまう猪狩くんって、やっぱりやばいアイドルだな、と思うのだ。いや、アイドルって型に嵌めて考えること自体が間違っているのかもしれないけれど。でも、本当に猪狩くんは凄いし、これだから彼からは目が離せない。きっとこれからも、彼は私達の先入観や価値観をぶっ壊してしまうような、想像もつかないようなものを見せてくれるのだろう。「俺は俺」「猪狩蒼弥」のスタンスで。