2月のフィルム

四季折々あなたと居たい

fence

秋は生命の季節だと思う。実りを成す季節。そして同時に死の季節、冬への入口でもある。夜の帳が落ちきったこの時間は尚更、死の匂いを色濃く感じる。まだ人の多い駅前広場。人工物に埋め尽くされたこの街にも申し訳程度の樹木はある。色付いた落ち葉は無機質な都会の光に照らされて、アスファルトの上でぐちゃぐちゃになっている。汚い。これが森の中ならきっと美しい紅葉の一部になれたのかな。こんな街に植えられちゃったばかりに、可哀想ね。まるでわたしみたい、なんて悲劇のヒロインぶったことは言わないけれど。

 

突如闇が切り裂かれた。

 

これは何の音?サイレン、サイレンだ。耳を劈くような。さっきまで周囲に対し徹底した無関心を貫き落ち葉を踏みつけ歩いていたサラリーマンが、ゲラゲラ笑いながら複数人で屯していた若者たちが、手を繋ぎ寄り添い合うカップルが、派手な装いで客引きをする女が、一斉に足を止め、会話を止め、訝しげに辺りを見渡す。

やがてその視線は一点に集中した。緑色のネオンの下、仁王立ちする1つの影。手に持っているのは、拡声器?ふらりふらりと人々が影の方に引き寄せられていく。街頭に群がる羽虫のよう。わたしも例外ではなかった。近寄るにつれ影の正体がはっきりしていく。若い男だ。黒いスーツをきっちりと身に纏った青年。その双眸は色の濃いサングラスに覆われて見えない。彼のことを訝しみながらも何故か目を離せないわたしたちに向かって、彼は片頬を吊り上げた。聴衆を嘲笑うかのように。

 

ぐるぐるとサイレンの音が渦巻く。その渦の中心に青年は立っている。そっと唇に寄せられた拡声器、口が開いた、瞬間。 

 

わたしの脳を何かが貫いた。

 

何か、とは一体何だ?

それは、言葉だ。彼の唇から紡がれた言葉が拡声器を通して放たれているのだ。そんなことにすら気付くのが遅れてしまうほどの衝撃だった。

彼は言葉を捲し立てる。サイレンの音に合わせ、天を仰ぎ、時折聴衆を一瞥しながら。警告、赤、檻、脅威、概念、王者。紡がれゆく言葉がわたしの脳の範囲を越えて、世界に流れ出していく。駅前広場に溢れ返っていたはずの日常が、彼の発する声で、言葉で、オーラで塗り替えられていく。最早この場で日常を過ごせている者など一人としていなかった。くたびれたサラリーマンも、大学生の集団も、若いカップルも、夜職の女も、普段の役割は放棄され、この異質な空間のオーディエンスでしかないのだった。

瞬く間に世界を作り上げた青年は尚も言葉の雨を降らし続ける。ここは彼の国と成った。彼こそが絶対的な支配者でありわたし達は彼の言葉をその身に受け続けることでしか存在できない。

そうだ、わたし達は所詮何かに支配されることから逃れられないのだ。先程までわたし達を支配していた日常が、常識が、崩れ去って尚わたし達は解放されることなんてなく、支配するものが変わっただけ。何故か?わたし達は解放されることを選ばなかった、選べなかった。そして眼前の青年は間違いなく選んだ者だった。破壊を、解放を、構築を、王座を選んだのだ。

 

わたしは彼とは違う、彼は間違いなく非凡な人間で、わたしは何処にだっている凡人なのだ。これが運命なんだって。

そう諦めることすら彼は赦してはくれなかった。社会の中で生きる為に否が応でも培ってきた諦念さえ彼は壊してみせる。

その圧倒的な力の前から逃げ出すことすらできずに言葉を浴び続ける、さながら拷問だ。ああ、なんて心地良いのだろう。死ぬまでずっとこれに浸ってしまいたい。

そんな気持ちすら頭を頭を擡げたが、その時。

青年の声が止んだ。相も変わらず渦を巻くサイレンは、それでも少しずつボリュームを落としていく。彼は掲げていた拡声器をゆっくりと下げ、目元を覆い隠していたサングラスにそっと手をかける。先程まで投げ掛けていた言葉達はあんなにも荒く重たく鋭利だったのに、一つ一つの所作は息を飲むほど美しかった。サングラスがずれて、切れ長な眼が僅かに覗く。その瞬間、わたしの中で一つの欲が生まれてしまった。

彼の瞳に映りたい。

それは余りに身の丈に合わない愚かな欲望。彼の瞳にわたしが「わたし」として映ることなんてできっこない。今だってそう、彼は口の端を僅かに吊り上げながらわたし達のことを眺め回しているけれど、彼の眼に映るわたし達は所詮彼の作り上げた世界のオーディエンスでしかないのだから。オーディエンスの中から抜け出して「わたし」自身を見てもらうには、わたしは余りに無力な凡人でしかなかった。

やがて空間が緑に染まってゆく。世界を掌握したようなその青年は両手を広げ、スーツの裾を翻してオーディエンスに背を向けた。そのまま緑の光の中に歩みを進めていく。待って、行かないで、わたしをその瞳に映して。大声で叫びたくとも、わたしの喉から漏れるのは荒い呼吸だけだった。

緑の光が強くなってゆく。彼の姿が飲まれてゆく。サイレンが遠ざかってゆく。

待って、待って。

 

「あなたは、だれ?」

 

わたしの口からようやく言葉が形になって零れたのは、彼の姿も緑の光もサイレンの音も全て消え去ったあとだった。

残されているのは、呆気に取られるオーディエンスだった者達と、糸の切れた人形のようにその場にへたりこんだわたしだけ。

 

 

 

※オールフィクションです。深読みしないでください。