2月のフィルム

四季折々あなたと居たい

わたしは猪狩蒼弥になりたい

猪狩くんに対して私が抱いている感情を最も端的な言葉で表すなら、多分これになる。「わたしは猪狩蒼弥になりたい」と。

好きな人、憧れの人のようになりたいと考えるのはあまり珍しいことではないかもしれないけれど、この言葉は大きな矛盾を孕んでいることに私は既に気付いている。猪狩くんについてある程度の知識のある方でしたらご存知でしょう、彼が常日頃から口にしている「俺は俺」という言葉を。俺は俺、I am I、自分は自分である以上、私は私であり私は猪狩蒼弥にはなれない。私が猪狩くんのようになる為には「私は私」であることを認めなくてはならないし、私本来の性格は猪狩くんとはとてもかけ離れたものであるため、私は私であると認めることは私は猪狩蒼弥ではなく、また、猪狩蒼弥のような人間になれる訳でもないという事実を認めることでもある。何だか哲学じみた話になってしまいつつあるけれど、つまるところ私は私であり、どう頑張っても猪狩蒼弥にはなれない、という至極当たり前のことを言っています。

 

先日、SODAの別冊に猪狩くんがソロで掲載された。ゆったりとしたシルエットに淡い色味のシンプルな衣装を見にまとい、本に囲まれた明るくて柔らかい世界観の中で撮影された猪狩くんは本当に美しかった。それと同時に「猪狩蒼弥の単独特集」という場であのような衣装、セット、雰囲気が使われたことが嬉しかった。独自のセンスと才能を持った強くて異端なアイドルとしての猪狩くんも素敵だけど、優しくて柔らかくて思慮深い1人の人間としての猪狩くんを見せてくれたような気がして。

テキストの内容は、いつもの猪狩くんだった。エンターテイメントやHiHi Jetsに対する、こわいくらいに真っ直ぐな想いがいつものように綴られていた。彼の語る話は常に一貫していて、言葉や言い回しに多少の違いはあれど、その内容は噛み砕いていけば全て同じような場所に帰結する。だから、私は彼の言動や信念を心から信じているし、彼のその姿に憧れている。

そしてその中で、ファンの自己肯定感について言及されている部分があった。彼は「自分を肯定することをファンに押し付けるつもりはない」と言う。これを読んでまた、やっぱこの人には敵わないなぁ、と思った。いっそ「ファンもそうあってほしい、そうあるべきだ」と言われていたら。そうしたら私は、結果はどうであれ彼の言葉通りそうあろうと一層努力をしていただろう。だけど猪狩くんはそうは言わなかったし、そこまで含めて私が思っていた通りの猪狩蒼弥だった。彼は自分が自分であることを大事にすることと同じくらい他者が他者であることも大事にする人だから。そしてそんな彼を見て私は尚更猪狩くんに「なりたい」の感情を拗らせていくのである。はぁ………猪狩蒼弥が好きだ………(唐突な語彙の消失)

 

猪狩くんはいつだって自分という軸を持っていて、だけど決して自分本位にはならない。自己を肯定する分だけ他者への気遣いや思いやりを人一倍持ち合わせている人だと思う。だから、彼の自己愛は見ていてとても清々しい。最近の猪狩くんを見ていて、より一層強く感じるようになった。

ツイッターや過去のブログをご覧の方なら知っての通り、私はまだ猪狩担を名乗るようになってかなり日が浅い。そんな身で言うのは差し出がましいのだが、過去の雑誌やYouTubeを通して見た昔の猪狩くんは今と比べて少し不安定な部分も見られるように思えた。これは猪狩くんに限らず、所謂「王道アイドル」からやや逸脱した立ち位置にいるアイドルの多くに一度は見られる現象なのではないかと思っているのだが、「王道」に対するコンプレックスのようなものを抱えていた時期があったのではないか、と私は推察している。今も「王道」とか「胸きゅん」とかを少し苦手そうにしている様子は垣間見れるけれど、でも昔の猪狩くんから感じる鋭くて脆い(ある種あの年頃の少年特有の)危うさのようなものは最近の猪狩くんからはあまり感じないような気がする。

これは私の勝手な憶測だが(というかこの文章自体がが私という1人の新規ファンによる憶測と推察と妄言の塊なのだけど)彼はどこかのタイミングで「なれない」を受け入れたのではないかな、とか思ったり。結局どこまで行っても自分は自分で、それってつまりどこまで行ってもなれないものはどうしても存在するってことだと思うんですよね。

ただ、その一方で猪狩くんって凄いな、と思うのは好きに自分を寄せるということもしっかり実現している点だ。最近の伝記で彼は100個の好きな物について語っているが、そこには「パイオニア的な人、人と違うことをしている人が好き」だと書いてあった。恐らく読んだ人の多くが感じたと思うが、これは猪狩蒼弥という人物にも少なからず当てはまる特徴だと思う。

それから、彼は短所を聞かれると基本的に「ない」と答えているが、その回答について詳しく説明している動画がHiHiの日に挙げられていた。曰く、短所だと自覚した点は直す努力をしているから、自分から見た自分に短所はないのだと。彼はさも簡単そうに言っていたけれど、それは決して簡単な事ではない。駄目だなぁと自覚しながらもズルズルと直せずにそれを引きずってしまうのが大半だ。駄目だと思ったから直す、直したから現時点で自認している短所はない。文字にすれば簡単なことだが、それを実現することができるのは猪狩くんの自己を客観的に見る力と自分を好きでいる為の強さがあってこそなのではないかな。猪狩くんが自分を好きでいられるのは、あるがままの自分を認めるだけでなく、好きになれる自分でいることへの努力を怠っていない点も大きいのではないかと、最近改めて思うのだ。そしてやっぱり同時にこの言葉が過ぎる、「この人のようになりたい」と。

 

さて、何だかんだ2000字をそこそこ超えるくらいの文章を書いてきたが、結局のところ私が言いたいことは「猪狩くんすげぇ」と「猪狩くんになりたい」の2点に尽きる。(一方で私は猪狩くんに対して「可愛い」「大切」「守りたい」みたいな気持ちも抱いているのだけど、その話はまたの機会ということで。)そして、冒頭でも語った通り私は猪狩くんになりたいと思う一方で猪狩くんになれないことも自覚している。けれど、猪狩くんに対する憧れの感情が少なからず私を変えているのもまた事実で。例えば、私は猪狩くんを好きになってから既に3本程猪狩くんの作品についてのブログを書いている。他のテーマも含めると更にである。私はアウトプットが大の苦手であり、加えて極度の飽き性な為、ここまでの数のブログを完成、公開まで持っていけたことは私にとってかなりの異常事態だったりする。なのでこれはアウトプットが上手な猪狩くんに憧れた私に訪れた明確な変化だ。とはいえ、公開した文章はどれも正直完璧に納得のいく出来にはなっていないし、まだ完全に自分のアウトプットを認められるようにはなっていないのだけど。でも、完成まで持って行ける確率が格段に上がったところは、少し褒めてあげてもいいのかなと思ったりもする。こうやって少しずつ自分のことを認めていけるようになればいい。

きっとこれからも猪狩くんはどんどん成長して凄い人になって、私達にワクワクやキラキラをたくさん届けてくれる。その度に私は猪狩くんのようになりたくて、でもなれなくて、その2つが捻れあってぐちゃぐちゃになった感情をずっと持ち続けるんだろう。でもこの拗れた気持ちは意外と私のためにもなったりするのかもしれない。何より、この気持ちを自覚する度に私にとって猪狩くんは益々大好きで大切な存在になっていく。難しい言葉は抜きにして、それって凄く楽しいし素敵なこと。

だからとにかく、猪狩くん、貴方を好きになって、本当によかった。